インタビュー
「雑誌 × web」クロスインタビュー
Interview 6
〜株式会社HCプロデュース シニアビジネスプロデューサー 吉田 寿〜
〜株式会社プロテリアル 常務執行役員兼 CHRO 人事総本部長 中島 豊〜
- Episode 1 「40年前、まさかこういう日が来るとは思いませんでしたね」。
- Episode 2 自身のキャリアを見定めるきっかけや出会い
- Episode 3 「これまでを1回捨てようよ」「その仕事を止めていいよ」
- Episode 4 偶然とチャンスと信念と
- Episode 5 日に新たに、日々新たに、また日に新たなり
- Episode 6 それぞれの道で目指す、幸福への道程
Episode3
「これまでを1回捨てようよ」「その仕事を止めていいよ」
編集部
「人事を極める」道を選び、そして実際にその通りのキャリアを歩まれている。すごいことです。本当に「人事」が好きなんですね。
中島氏
実は人事の仕事自体は大嫌いだったんですよ。
吉田氏
それは僕も同じです(笑)。
嫌で嫌で仕方がなくて、会社を辞めて大学院に戻ったのが正直なところです。
でも、キャリアというのはずっと引きずるものだなと思いました。自分はこういう方向でやりたい、とキャリアの志向性を語ってみても、結局他人が見るのは、その人がたどってきた道筋ですから。
高村光太郎の詩じゃないけれど、「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」で、後ろにできた道しか人は見ない。そう気付いたときに、周囲から人事が得意だと思われているのなら、それをやってみようと腹をくくったというところが正直あります。
そこで自分の専門性が1つ確立してきたわけです。それまでは正直、試行錯誤ですよ。何に適性があるかなんて、自分ではわからないじゃないですか。
中島氏
私が、人事の道を歩むうえで一つだけ決めていることがあって、それは転職のときに同じ業種には行かないということです。今の所属は8社目ですが、今回は違いますが、それまではそれまでとは少しずつ違うところを選んでいます。
金融も行きましたし、グローバルのメーカーに行きましたけれど、最近は日本の製造業をもう一度見てみたいと思って、国内のメーカーに行きました。でも今の日本の製造業は40年前と比べてすっかり変わっていましたね。変わったと同時に弱くなったなと感じました。
吉田氏
なぜ日本の製造業はこんなにも弱くなってしまったのでしょうね。いま個人的に研究をしているテーマがあるのですが、いわゆる日本的経営は今後どのような方向にいくのか、そこに可能性はあるのか、ということです。
古き良き時代ではないけれど、もう一度、日本企業が輝きを取り戻すような取り組みがあるのではないかと思っていて、中期的なテーマとして、人的資本経営もそういった側面から関心を持って研究しているんですよ。
中島氏
私は、吉田さんが研究している部分を、いま実践しているところです。
われわれの世代で製造業の現場を知らない人たちは、まだ日本の製造業が強いという幻想を持っているような気がします。よく「日本の製造業はいい」とか、「物作りの力」だとか、「物作り復興」みたいなことを言っていますが、実際に今の現場を見ると、根底にあるプラットフォームはもうグズグズに崩れてしまっているように思えます。
その原因は、1つは人に対する投資を怠ってきたことが大きい。人材が学んでいないので、次のステップに行くだけの知識が欠けています。知識が欠けてくるとどうなるかといえば、昔と同じことを繰り返していく。気概というか、昭和30年代ぐらいの人たちは新しい人事制度を作っていこう、新しい会社にしていこう、というのがすごく強かった人たちだと思うのですが、今の人たちはそうではなく、昔を守ろうとしているところは感じます。
だから、日本の製造業を強くするためには、「これまでを1回捨てようよ」という役割を誰かが果たさなくてはいけないと思っています。
吉田氏
ずいぶんと時間は経ちましたが、そういった意味では、ゼロから復興をさせなくてはならなかった戦後のような、ああいった一から積み上げていく事例が参考になるのかもしれませんね。
今は、ある程度積み上がった過去のレガシーがあって、それにこだわる人がいる。レガシーって、ある程度安定があるものですから、何か新しい発想にうまく結びつける活動が足りていないのかもしれないですね。
勇気をもって「その仕事は止めていいよ」と言える人がいない──
中島氏
仕事のやり方を見ても、みんな伝統を守って仕事をしていますからね。
例えば、職場ではハンコ文化がまだ残っていて、オンライン決裁に変更しても、画像の判子を電子ファイルの書類にコピペするという、ちょっと驚くようなシステムができあがっています。絶対に変えたほうがいいのですが、そういった昔のやり方を守っていくことが仕事だと教わっているので、なかなかやめられない。
吉田氏
制度の番人に終始しているところもありますよね。
中島氏
そうなんです。人事が制度の番人自体はいいのですが、今の人事の仕事って、制度の番人に加えて新しい仕事がどんどん入ってきているので、目一杯になってしまう。そうすると新しいことが考えられなくなってしまい、その結果、仕事の中で無駄が多く生まれてしまうと感じています。
その部分を1回整理しなくてはいけないのですが、勇気をもって「その仕事は止めていいよ」と言える人がいない。そういった意味では吉田さんのようなコンサルタントや、私のように外部から入ってきた人間がその無駄を指摘して是正することは重要なことなんです。
吉田氏
人事はどうしても保守的な部分があるんですよね。業務はルールを守らなくてはいけない、労働基準法を逸脱してはいけないなどというところがベースにあるので、結局、それに終始してしまっている。
中島氏
それを守ろうとして、リスクのあるものを全部排除し、やらない理由付けを一生懸命つける、そんな風潮があります。
吉田氏
「大過なく」という言葉がありますが、文字どおりこれまでは、そこだけ守っていれば「大過なく」できていたことも、今は変化の激しい時代になったので、リスクをとらず守っているだけでは通用しなくなってしまいました。それこそ飛躍が望まれるわけで、最近よく言われる「バックキャスティング」のような発想が必要ですよね。
積み上げながら先を探索する「フォアキャスティング」ではだめで、やはり“ここだ”と見据えた未来からバックキャストで考えて、今やるべきことを見定めていくぐらいの発想の飛躍がないと、新しいことがやれないというのがありますね。
中島氏
ただ、そういった新しい発想をする人って、組織のなかで上のポジションにいかないんですよね。富士通にもそういった考え方をする面白い人がいて、学ぶことが多かったのですが、結局、偉くなりませんでした。
吉田氏
確かにそうかもしれません。僕が配属された最初の職場には、当時、富士通人事の中で最も進歩的と評される上司がいて、僕はその人の薫陶を受けましたが、その上司がそれに見合う十分な処遇を受けたかというと、いまでも少し疑問が残っています。
中島氏
私に最初に仕事の指導をしてくれた方は、人事部内での評価は高くなかったようですが、私はとても尊敬していました。当時まだ出始めのOA機器を使って業務をオートメーション化するようなことをしていました。例えば、賞与や給与の査定で使ったデータを、プログラムを組んで落とし込み、トータルの予算や予算対比を計算するといった具合です。
電卓や算盤を使って計算をしていた業務なので、言わば「どれだけ楽をするか」という発想でしたが、当時は「楽をする」という思想は悪だったんです。どれだけ「手を使って」精緻にやるか、ということが重要視されていて、そういったことをする人が評価され、どんどん偉くなっていきました。
そういった意味で彼は組織で評価が低かったのかもしれませんが、私はそれを見ていて、「仕事は楽をしようと考えたほうがいい」と仕事に対する向き合い方が固まりました。
次に異動した蒲田の研修センターでは、私もプログラムを組んで仕事をしていたのですが、当然、同僚よりも仕事が早く終わるんです。留学を考えていた私は余った時間で英語の勉強をしていたのですが、あるとき上司に呼ばれて、「君の残業は60時間程度で少ない。だから100時間、120時間残業している先輩の業務を手伝うように」と言われたんです。そのときは、本気で会社を辞めてやろうと思いました(笑)
吉田氏
「益荒男(ますらお)ぶり」という言葉がありますが、ド根性で頑張って時間外をたくさんやっている人間のほうが偉い、という風潮がありましたよね。
中島氏
残業時間が多ければ、それだけ疲労が蓄積してパフォーマンスは落ちてしまいます。一方、コンピュータを使ってデータ処理をすれば、正確なものがパチッと出ます。最後はプログラミングに凝って、ボタン1つで表まで全部書けるものを作りました。最もこれは自分の趣味というのもありましたけれど(笑)
吉田氏
素晴らしい! でも当時は長時間残業が普通の状況でしたよね。僕なんか、お金を使う暇がないくらい残業三昧でしたから、どんどん通帳にお金が貯まっていくような生活でした。
そのおかげで大学院に行く学費が出せたのでよかった、と今じゃ笑い話にしていますが、当時は深刻な問題でしたよ。
よく「いくらでも残業付けるから」って言われていましてね。
僕は、現場の時間外予算の管理と代休取得管理もやっていたので、よく現場にいって予算内に時間外実績を収めるよう代休取得を呼び掛けていましたが、そのせいで自分の残業時間が増えるというこの矛盾……(笑)。
中島氏
人件費管理なんかしていませんでしたからね。でも、伸びている会社だったんですよね。いろいろなイノベーションも起きていて面白かった時代でもあります。親指シフトとか、FMタウンズとか、いろいろな新しいものを生みだしていた時代でした。当時の富士通は先端を走る会社でしたね。