人事の地図

インタビュー

「雑誌 × web」クロスインタビュー

Interview 6

〜株式会社HCプロデュース シニアビジネスプロデューサー 吉田 寿〜
〜株式会社プロテリアル 常務執行役員兼 CHRO 人事総本部長 中島 豊〜

Episode2

自身のキャリアを見定めるきっかけや出会い

編集部

配属された工場の後、次はどのようなキャリアを歩まれたのでしょうか?

吉田氏

僕は館林工場で富士通のキャリアは終えているんですよ。在籍期間は4年です。当時は残業に次ぐ残業で、このままいくとバッテリーが上がる、燃え尽きてしまうと思い、会社を離れる決心をしました。

過労で1度倒れてしまったんですね。ある朝、起きたら目の前が真っ白になってしまって。よく例えで「目の前が真っ白になる」って言いますが、本当に真っ白になるんだなって実感しました。

でも、当時はまだ若かったので「また倒れても、飯食って立ち上がればいいんだ!」(笑)って感覚で続けていたのですが、だんだんと不安になってきましてね。アウトプットするだけでインプットができていないなという思いが高じて、会社を辞めて大学院に入り直す決断をしたんです。

中島氏

私は川崎の工場に2年いたあと、管理職研修を専門に行う蒲田の㈱富士通経営研修所に配属されました。当時の富士通は45歳になったら、管理職、非管理職問わず全員3カ月間通常の業務から外して、経営研修所で経営教育の研修を受講することになっていました。

部長クラスや課長クラスには経営に関する研修を、一般職には部下指導などの研修を行っていましたが、それに加えて重きを置いていたのが芸術や座禅、美術鑑賞といった内容の研修でした。

吉田氏

そうそう、やっていましたね。「雪月花の心」とかね(笑)。

中島氏

要は「人間性を磨きなさい」ということが研修の目的でした。それならば先生も一流でなければいけないと、阿刀田高さんや金子兜太さんといった、優秀な方々を招いて研修を行っていましたね。

45歳は人生の折り返し地点だから、そこで一度リセットし、第2の人生を考えなさいと。一方で3カ月間職場を離れると、職場は研修を受けている社員がいないことが通常になり仕事が回るようになります。

つまりその研修には自分がいなくても会社は回ることに気づかせる、という狙いもありました。そうなると、研修に来た従業員が抜けても職場は仕事が回るので、逆にその職場にいた優秀な人材を動かしやすくなります。

編集部

なるほど。当人も周りも気づきを得るわけですか。

中島氏

はい。それから、「ケーススタディ」に初めて出会ったのもそのときでした。法学部だったので法律のケーススタディ、いわゆるロウケースの勉強というものは知っていましたが、企業経営のケーススタディは新鮮でした。しかも、その中には「人事」という項目もある。 その経験があって、大学院に行って勉強をしたいと思い、留学の機会があったのでアメリカに留学をしました。

「これからはHRの領域を渡り歩いていくキャリアを歩む──」

吉田氏

僕が退職したのは、バブル崩壊前の80年代の終わり頃だったので、人材の流動化とは真逆の時代でした。「転職」は「転落」を意味する時代だったんです。

だから会社を辞めると言ったら、周りは「吉田君……せっかく入った会社を辞めて、本当に大丈夫か?」なんて言われて、僕自身もあまりにも回りがそんなふうに言うものですから、「ひょっとしたら、僕は取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないか」「もう企業社会には戻れないんじゃないか」と不安になりましたね(笑)。

中島氏

同期で、明確に目標をもって辞めたというのは吉田さんが初めてでしたね

吉田氏

そうなんです。周りにそういう先駆者が誰もいなくて、工場の部長クラスの方々も、「吉田君は大学院に戻って何を勉強するの?」と、かなり興味本位でいろいろ訊いてきましたから、非常にレアなケースになっているなぁと(笑)。

大学院進学に際して、学部のときの恩師にも改めて手紙を書いたのですが、恩師からの返事には「大学院進学の報告、確かに受け取りました。熟慮の末の判断だと思う」という神妙な便りが返ってきましてね。早まった決断をしちゃったのかなぁ……なんて思ったものでした。

中島氏

でもそのころが、世の中全体の潮目が変わる直前だったんじゃないかな。その後、私が留学から戻ってきたころには、転職が当たり前になっていましたから。

吉田氏

そうそう、中島さんが留学から戻ってきて、しばらくしてから会社を辞めるというときに同期会を開いたのですが、そのときに「これからはHRの領域でいろいろな分野を渡り歩いていくキャリアを歩む」と宣言したんですよね。覚えてますか?

中島氏

うん、言った気がします。留学から帰ってきたころに、自分のキャリアの歩み方について腹を決めたんですよ。

吉田氏

その発言をすごく覚えていましてね。僕はそのころは三和総合研究所(以下、三和総研)に勤めていましたが、そういったことまでは考えていませんでしたから。いやぁ世の中には実に奇特な人がいるなぁ・・って思いました(笑)。

編集部

宣言されるって、ご本人としてはものすごい決断があったと思いますし、実際その後のキャリアを拝見しても重要な選択だったと思うのですが、中島さんとしてはどんな理由があったのでしょうか。

中島氏

きっかけの一つは、富士通時代の最後の仕事での経験です。留学から帰ってきて国際人事として駐在員のお世話をしていました。それと同時に、ちょうどそのころ富士通がイギリスのICLを買収したので、買収後の取締役会、特に報酬委員会や指名委員会の内容を日本の役員たちにリエゾン、いわゆる橋渡しするような仕事や、ICLに研修生を派遣したりする仕事を担当していました。

そこでのやり取りでは、「報酬設計」など、ビジネススクールで机の上で勉強した内容が実務として出てきたんですよ。「なるほど、こういうことか。面白いな」と思って仕事をしていたのですが、一方で日本の役員たちの反応は冷たいものだったんです。

ストックオプションなど、さまざまなものを駆使して従業員のリテンションを考えていたのですが、「それはよその国の話だね」程度の感覚だったので、はたしてそれで世界に出て戦えるのだろうかと疑問に感じ、そうであれば世界グローバルな企業に移ってみようと思ったときに、次の会社との出会いがありました。

吉田氏

中島さんがその時、感じた通り、その後の日本企業は世界で戦えなくなってしまったと思います。

中島氏

もう一つは、留学準備で、今でいう「キャリアの棚卸」をしたことが大きいですね。留学時の入学試験でエッセイの提出があったのですが、「自分が学校に対してどのような貢献ができて、その後、どういったキャリアを歩むのか」というテーマでした。

自分の棚卸をしながらエッセイの執筆に取り組んでいるときに、私が書けることって人事のことだな、そうなると勉強するのは人事だよな、といったストーリーになっていったんです。それで人事の勉強をすることを決めました。

ただ、そんなことをその当時の上司たちに言うと、「なんでそんなものを勉強するの?」といった反応でしたね。まだ「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉が残っていたころで、アメリカの人事と日本の人事はまったく違うでしょうと、みんなが思っていたんです。

吉田氏

その当時の日本は、学問としての人事、例えば、ヒューマンリソースといった考え方も紹介されていませんでしたし、人事は実務であり現場である……という認識でしたからね。人事はアートでありサイエンスであるのですが、その部分は、当時の日本にはまったくない概念でした。

中島氏

サイエンスがまったくありませんでしたね。でも、その「なかった」ことが、私が博士課程に進むきっかけになったんですよ。ただ私も、「なぜ人事の勉強をするのか」と上司たちに言われて、一瞬迷ってしまったんです。

そんなときにたまたま経営研修所でお世話になっていた大学の先生に相談したら、「10年たてば日本の人事はアメリカの人事の後を追う」と言われたんですよ。

実際、日本に戻ってきたら、10年も経たないうちに成果主義の導入が始まりました。でも、それはアメリカで見たものとは違う、すごく不思議な成果主義で、学んできた人事とは違うな、と。
そういうことを目にしていくなかで、日本にない人事の道を歩んでいこうと決めました。

吉田氏

それでさっきの「これからはHRの領域でいろいろな分野を渡り歩いていくキャリアを歩むんだ」という発言につながるんですね。

Episode 3 へつづく