インタビュー
「雑誌 × web」クロスインタビュー
Interview 6
〜株式会社HCプロデュース シニアビジネスプロデューサー 吉田 寿〜
〜株式会社プロテリアル 常務執行役員兼 CHRO 人事総本部長 中島 豊〜
- Episode 1 「40年前、まさかこういう日が来るとは思いませんでしたね」。
- Episode 2 自身のキャリアを見定めるきっかけや出会い
- Episode 3 「これまでを1回捨てようよ」「その仕事を止めていいよ」
- Episode 4 偶然とチャンスと信念と
- Episode 5 日に新たに、日々新たに、また日に新たなり
- Episode 6 それぞれの道で目指す、幸福への道程
Episode1
「40年前、まさかこういう日が来るとは思いませんでしたね」。
編集部
今回は、株式会社HCプロデュースで企業人事のコンサルティングを手掛ける吉田寿さんと、株式会社プロテリアル(2023年1月、日立金属株式会社から社名変更)で、常務執行役員兼CHRO人事総本部長を担い、日本人材マネジメント協会(JSHRM)会長でもある中島豊さんに対談という形でご登場いただきました。
お2人には、当社の定期刊行誌や書籍で度々ご寄稿いただいていますが、
※直近の「人事の地図」誌への寄稿
吉田寿氏 時事探訪「働く人たちの『幸せ』について考える」(2023年10月号掲載)
中島豊氏 連載「人事実務の全体と個別を理解する HRMナレッジ大系」
(執筆陣の一人として2022年10月よりご執筆)
HRのコンサルタントとして、ある意味その領域を開拓してきた一人である吉田さんと、人事のプロフェッショナルとして、さまざまな企業で活躍されてきた中島さんが、富士通の人事部の同期としてキャリアをスタートされて、いまもなお交流が続いていると伺いました。
それならば、お2人のキャリアがどのように培われてきたのか、キャリアを歩む中で起きたあれこれや人事に対する思いを、ざっくばらんに聞かせていただきたい、というのが今回の対談の趣旨です。どうぞよろしくお願いいたします。
中島氏
よろしくお願いします。実は今回のお話をいただいて、対談の出だしを考えてきたんです。
「40年前、まさかこういう日が来るとは思いませんでしたね」。
対談の最初の言葉はここから始めましょう(笑)。
吉田氏
本当にこんな日がくるなんて思いもしなかったなぁ。いいですね、それでいきましょう(笑)。
それにしても40年ですか……。あらためて振り返ると、僕らは来年(2024年)が卒後40年で、つまりは入社40年なんですよね。
編集部
お二人は富士通に同期入社されたんですよね。
中島氏
そうです。初めて吉田さんに会ったのは入社日の4月1日じゃなかったんですよね。配属の発表のときだから、入社から2週間くらいだったかな。私は最初は、工場部門に配属になったので、作業服を着て生活がスタートしたんですよ。
編集部
人事部に配属されても、作業服を着て勤務されていたんですか?
吉田氏
そうなんですよ。でも、その作業服が嫌でしてね。
中島氏
私も作業服は物珍しく感じましたね(笑)。会社に入った瞬間に工場に配属されて、作業服に着替え…ですからね。まったく新しい経験です。しかも出勤すると、許可がないと外に出られないので、そこでずっと仕事をして生活するという環境でした。学生時代と大きなギャップがありましたよ。
吉田氏
僕らのころは、人事は現場がわからないと駄目だって風潮がありましたからね。ただ、やはり現場ですから、人事管理というよりは労務管理が業務内容でしたよね。
中島氏
ええ。労務管理と言っても給与のデータを一生懸命手で入力して読み合わせて……という作業ばかりでした。
吉田氏
そのころは「作業ばかりで嫌だ」と思って仕事をしていましたけど、コンサルタントの仕事をするようになってから、20代のころに嫌だと思ってやっていた仕事が、結構、役に立っているなと思うようになりました。
だから会社の若手社員にも、意味がわからないまま担当している仕事があるかもしれないけど、とりあえず目の前の仕事をきちんとやっておきなさいと言っています。そのうち意味がわかってきて、「ああ、あのときのアレって今役に立っているな」って思う日がくるから!(笑)
編集部
私もそれを言う側の立場になってきましたので、とてもよくわかります(笑)。
吉田さんと中島さんは同じ工場に配属されたのですか。
吉田氏
配属先は違ったんですよ。僕は群馬の館林に配属されました。
中島氏
私は川崎の工場です。
吉田氏
僕が赴任した館林工場は、当時の富士通では最先端の工場で、ファクトリーオートメーション、いわゆるFA化されていましてね。最新の設備を見ようと、お客様が毎月何千人って来る工場だったんです。
そんな工場に配属されて最初に担当となった業務が、なんと工場見学の案内係(笑)。新入社員研修のときに館林工場の工場見学があったのですが、配属されたら「吉田君、工場見学したことがあるんだから案内できるだろ?」と言われました。
「1度しか見たことないのにできるわけがないじゃないか」と思いつつ、でも当然そんなことは言えず……。そんなこんなで工場見学の案内係からキャリアをスタートさせました(笑)
中島氏
館林は銀行のATMを作っている工場でしたよね。
工場見学に行ったとき、昼休憩の際のラジオ体操が始まると、試験ロボットが、人間と一斉になって手を挙げて体操をしていたのをいまだに覚えていますよ。
吉田氏
富士通はそういう遊び心があった会社でしたね。最新鋭の工場が稼働して半年のタイミングで配属になったので、オフィスや建物はすごくきれいでしたが、赴任してみて驚いたのは、何も整っていなかったことです。あれも足りない、これも足りないといった状況で、だから何でも全部やってくれという話でした。
中島氏
当時の富士通は伸び盛りでしたから、どこもそんな状況でしたよね。私も同じような経験があります。入社2年目のときに、近くに建ったビルに部隊の一部を移設して、そこの管理を命じられたのですが、やっぱりあれがない、これがないとドタバタやっていましたね。
吉田氏
僕は工場の周りを走らせる通勤バスの時刻表まで作りましたよ。バスに乗って、停留所に何時何分に停まるというのを一生懸命メモしましてね。こういうことばかりやっていて「人事と言っていいのか」と思ったりしました(笑)
編集部
(笑)。それは困ったときのなんでも屋ですね。
吉田氏
本当にそうなんですよ。当時、人事は「勤労」と呼ばれていたのですが、「勤労は事務棟に引きこもっていて、呼んでも全然出て来ない」……なんて話を現場から聞いたので、それならばと現場に行ったら、「あ、こいつ呼んだら本当に来たよ」みたいな反応で(笑)。
呼ばれたら行くのを繰り返していたら、本当に「なんでも屋」みたいになってきましてね。あるときは、現場の扉の蝶番(ちょうつがい)が壊れているから直してくれと言われて、「これは人事の仕事じゃないだろ」と思いつつ、手配をしました(笑)。
そうそう、臨時で女子寮の管理人も担当したことがありました。正規の管理人のおじさん・おばさんご夫婦が夏休みを1週間取るというので、その間の代理ということで、僕のキャリア形成においては本当に貴重な1週間の経験でした(笑)。入社1年目とか2年目はもう、そんなものでしたね。雑用も含めて何でもやりました。
編集部
女子寮の管理人まで経験されているとは、業務の幅が広いですね(笑)。中島さんが赴任された川崎工場はどんな工場だったのですか?
中島氏
私が配属された川崎工場は、実際は「工場(コウバ)」ではなく、技術開発センターで、製造ラインは半導体の試作品工程があるぐらいでした。ほとんど技術者で、しかも若い技術者が多かった印象です。揉め事もほとんどなく、まじめな雰囲気でしたね。
先ほど話に出たように、生産現場だけでなく人事や開発の人も作業服を着て仕事をするのですが、現場の人と違ってわれわれはそんなに汚れないので、結構洗わずにそのまま着続けていたりしました(笑)。
編集部
なんだか男子校みたいな感じですね。
中島氏
そうですね。ただ、勤労部門に関していえば、女性社員が過半数だったので、雰囲気が違いましたね(笑)。
男女雇用機会均等法、バブル景気……
今とは全然違う時代は、会社の制度も全然違いました
中島氏
中学・高校は男子校で、大学は共学に変わりましたが、600人近くいる1学年のうち女性は10人程度で、ずいぶん少ないんだなと思いましたね。
吉田氏
当時の男女比はそのくらいの割合でしたよね。僕の大学のクラスも同じようなものでしたが、今は男性6、女性4くらいの割合で女子学生が増えているみたいです。
中島氏
当時は今とは全然違う社会でしたから、会社の制度も露骨にそういった社会を反映していました。
吉田氏
寿退社の結婚加算金というものもありましたね。ちょうど均等法(※男女雇用機会均等法)が施行されたとき、上司から、均等法に触れる就業規則があるか、洗い出して報告するように言われたのですが、この結婚加算金を、男女逆差別だと報告しました。男性が結婚しても加算金は出ないのですが、女性が結婚で退職すれば加算金が支給されるという女性が優遇された制度だったんですよ。
編集部
そうか! お2人は均等法が施行されてこれからどうなるのか、という現場をリアルに人事として体験されているんですね。
吉田氏
僕たちは女性総合職一期生の採用も経験していますからね。
中島氏
富士通ではシステムエンジニアに早々と女性を採用していたので、われわれの同期にも女性がいました。理系文系問わずに女性の大卒がいて、同じクラスで新入社員教育を受けましたから、女性の比率が増えたんだなという実感がありましたね。
吉田氏
とはいえ、館林工場の勤労課では、就業給与班の班長という業務に着いたのですが、部下は全員女性で6人いる班のうち、男性は僕一人。間接部門でしたから、当時は、相対的に賃金の低い女性社員を有効活用しようという会社側の判断だと思ったりしていましたね。
中島氏
私は当時、査定の手伝いをやっていましたが、男女で別テーブルに分かれていましたからね。学歴ごとにテーブルがあって、年次ごとの中で分かれていて、さらにそのテーブルが男女で分かれている。最初は大卒男子の査定をすごく丁寧にやって、その次に高卒、短卒の男子をちょっと丁寧にやる。最後に残る高卒女子に関しては「全部同じ数字入れといて」というような感じで終わっていました。
編集部
露骨ですね。これって富士通だけではなくて、学歴や性別にそんなにも格差のある時代だったんでしょうか。
吉田氏
そうなんです。それが僕たちが社会人になりたてのころの社会構造だったんです。 大学時代も、女性比率が低いというのはあるにせよ、男性に比べて優秀な女子学生が多かったのに、世の中に出たら男性が圧倒的に優遇される社会を目の当たりにして、変だなと思ったことがあります。
中島氏
吉田さんの話を聞いていて、あらためて本当にそうだったなと思いだしました。でも、会社だけでなく社会全体で、そんな露骨な優遇が当たり前とされていましたね。