人事の地図

インタビュー

「雑誌 × web」クロスインタビュー

Episode1

日本の人事の歴史と一緒に

編集部

日本でも注目を集めてきているGreat Place to Work(日本では「働きがいのある会社」と翻訳。以下GPTW)の始まりともいえる、ロバート・レベリングの「A GREAT PLACE TO WORK」という本がありますが、その完訳となる、『働きがいのある会社とは何か―「働きがい理論」の発見』が、昨年10月に出版されました。

斎藤さんには弊社の各誌でお付き合いいただいてきましたが、今回その本の翻訳に深くかかわられたという事で、「人事の地図」時事探訪への寄稿をお願いしました(「米国企業と日本企業の『組織における働きがい』格差」、2023年2月号、3月号掲載)。

そんなせっかくの機会ですので、これを機に、斎藤さんがどんな方なのか、また寄稿で書ききれなかったことを聞かせてもらいたいと思い、お時間いただきました。

今回改めてプロフィールを拝見したんですが、2月号の書評でも書かせてもらいましたけど、斎藤さんのご経歴って、ある意味日本の人事の歴史と一緒に歩いて来られたようなものじゃないですか?

斎藤氏

それは言い過ぎだと思いますが、昔、当時のWorks(リクルートワークス研究所の機関紙)の編集長にも似たようなことを言われたことがありますね(笑)。
バブル崩壊後の日本の大手企業の人事変革ムーブメントは目の当たりにしていました。今は大学教員で学生相手が中心ですが、1993年から2008年頃までの15年間は、日本を代表する各業界のトップ企業の人事部の方々と深い交流をしながら仕事をしていました。人事革新をめざす会社群の中で、触媒のような役割を担っていたとすれば本望です。

編集部

ご自身のキャリアの中でも、日本能率協会でのご活躍というのが大きいと思いますが、協会では、海外調査団ですとか研究会ですとか、いろいろな企画を担当されていたんですよね?

斎藤氏

大手企業の、例えば人事や経営企画担当の専務や常務クラスに集まってもらう評議員会を担当していたので、いろんな方と知り会える機会が多かったです。
そのおかげで30代初めの頃から専務や常務に連絡を入れてもアポイントを断られないような環境で、臆せず会いに行って、気になっている経営課題を聞き出して実態調査を企画したり、研修コースを企画して参加してもらったり……いい経験ができました。

1990年くらいから2007年くらいまで、研究会や委員会などで継続的に交流があった会社で、今もときどき会う機会のある人がいる会社は、ソニー、キヤノン、パナソニック、トヨタ自動車、日産自動車、本田技研、資生堂、花王、旭化成、富士通、新日鉄、電通、博報堂、三井物産、味の素、森永乳業、アサヒビール、キリンビール、サントリー、古河電工、コマツ、オリックス、リクルート、セイコーインスツル、KDDI、IHI、横河電機、日本たばこ産業、ベネッセコーポレーション、オリエンタルランドなどです。各社に親しく交流した方々が、それぞれ3~4人以上います。

編集部

バブルがはじける前の、華やかなりし頃、ってところでしょうか。

斎藤氏

どちらかというと弾けてからですね。弾ける前もいろいろ活動していたけど、バブルが弾けてみんな困って、他の会社の話を聞きたいって言いだしたのです。
だから結構ニーズがあって、それも「これは」という会社ばかりの情報が集まっていましたので、ますますいろんな会社が研究会やシンポジウムなどに参加してくれました。むしろ参加企業を選び、闇雲に声をかけないようにしようと思っていました。

編集部

なるほど。担当業務としては、おっしゃられたように、企画営業ということでいろんなことを手掛けられてきたんですか?

斎藤氏

そうですね、やりたいことがやれる環境でした。いちばん面白い無形商材の企画営業です(笑)。特にやりがいがあって好きだったのは様々なテーマの研究会と海外調査団で、研究会は毎月集まるから親しくなるじゃないですか、また調査団は何日も連続して同じ会社に訪問し、同じホテルに宿泊するわけですから、かなり密な関係性が生まれます。すると、ますますいろいろな話を聞けるようになるんですよ。

しかし、調査団は楽しかったけど、ものすごく準備が大変でした。
参加者を募る時って、どんな会社に行くのですかと聞かれるわけじゃないですか、その一方で、ぜひ行きたい会社に連絡すると、「どの会社の誰が来るのですか」と聞いてくる。どっちもまだ決まってないわけです(笑)。

それまでの実績があれば、去年はこういう参加者がいましたと言えるのだけど、必ずしも去年と同じ会社になるとは限らないですから結構大変でした。しかし、1996年に NECの秋山裕和常務が調査団長を引き受けてくれて、その後7回団長を担ってくれたんです。(秋山常務は、その後専務取締役、副社長、最高顧問を歴任)

当時はGEとかIBMが旬な頃でした、NECもとても元気がよくて、海外でも興味を持たれていたから、NECの上級役員がミッションリーダーですと言うと、向こうも話を聞きたがってアポイントがスムーズに取れたんです。そのうち明治乳業や、三菱化学の専務、花王やベネッセコーポレーションの取締役なども参加してくれるようになって、大盛況の調査団になりました。

米国では、スリーエム、ヒューレット・パッカード、AT&T、ゼロックス、シスコシステムズ、オラクル、コカ・コーラ、アメリカン航空、ジョンソン・エンド・ジョンソン、フォード自動車、ゴールドマンサックス、ハーレー・ダビッドソン,フェデックスなど、
欧州では、ドイツのダイムラー・クライスラー、シーメンス、SAP、スウェーデンのエリクソン、フィンランドのノキア、イギリスのダイソン、イタリアのフィアット、スイスのABB、UBS銀行などを訪問しました。
しかも1~2時間の訪問ではなく、基本的に10:00~15:00でアポイントをとりました。

GPTWに出会ったきっかけはコンサルティング?

編集部

その後、2003年に社団法人日本能率協会(JMA)から日本能率協会コンサルティング(JMAC)に移られるわけですが、これは別会社なのですね?

斎藤氏

別ですね。元々は1942年に創立された同じ会社だったのですが、1980年に分離独立しています。
当時の社団法人日本能率協会ってそんなに大きな組織じゃなくて、管理職になると事務的な仕事がメインになってくるんですね。それで実際に異動辞令が出た時、第一線から離れるのは面白くないなと思いました。それに専門家になれないと自分が潰れてしまう、という意識がありました。

私は人事のコンサルティング部門の人たちとも仲が良かったので、「うちに来ないか」という話になり、正式に希望を出して転籍が認められたのですが、その時私は、すでに46歳。遅すぎるくらいでした。しかし、コンサルティングでは新人ですので、「JMAでは部長でした。しかも、46歳ですが、何でもやります」と言って書類の整理とか書類作りも率先してやりました。エクセルも今よりも駆使していました(笑)。

当時は人事系のコンサルティング業界に外資系のコンサルティングファームが多数入っていて、すごくパワフルに活動していました。
当然我々としてもコンペチターとしてリサーチするのですが、すでに日本に来ているコンサルティングファームは独自路線でもう全力で走り出していました。
ならば、アメリカにはもっとほかにも人事コンサルの独自技術を持った会社があるんじゃないか、そういうところと提携すると面白いことになるんじゃないかということで、さらにリサーチを進めたんです。

自分でアメリカに行ったり、外部の調査機関に調べてもらったり、探してみると、人事系のコンサルティングファームは、なんと2000社ぐらい出てきました。そこからまず200、そして30と絞っていって、絞り込んだファームには実際に訪問してヒヤリングをしました。しかし、「ここだ!」っていうところは見つかりませんでした。
で、そうこうしているうちにGPTWを見つけたのです。

編集部

え? ここでGPTWに繋がるんですか?

斎藤氏

はい、そうなのです。それともう一つあって、調査団で2004年10月にSASインスティチュートというノースカロライナ州の会社に行きました、とても従業員を大事にしている会社でした。当時は社員数9000人くらいの会社で800人収容できる保育所を作っていました。本当に素晴らしい会社でした。

その時すでにGPTWのことを多少は見聞きしていたのですが、そのSASインスティチュートがGPTWのランキングに入っているというので確認したところ……こんなすごい会社が、1位ではなかったのです。
こんなに素晴らしい会社なのに1位じゃない。世の中にはもっとすごい会社があるんだ、と思って興味を持ちました。
そこから徹底して調べるようになって、その活動の中で、GPTWインスティチュートと是非とも業務提携がしたいと思うようになり、周到な準備をして、2005年の3月8日に初めてGPTWに行きました。

編集部

あれ、でも2005年の11月にGPTWジャパンを設立していますよね? 斎藤さんはチーフプロデューサーに着任されていますけど、そんなに短い間に契約まで持っていったんですか?

斎藤氏

はい。相当緊張しながら業務提携の交渉に行ったのですが、とても感激してくれました。当時GPTWの活動は、すでに世界27カ国で行われていましたが、日本人でここに来たのはあなたが初めてだって言われました。
それを聞いてちょっと驚きました。もうすでに誰かが接触していると思っていました。日本人ってアメリカの情報を知っているようで知らないんだなと思いましたね。

編集部

うーん……それは斎藤さんがある意味最先端にいたからじゃないでしょうか(笑)。

斎藤氏

ああ、そう言われると調査団を毎年やっていたから、感度だけは高かったのかもしれないですね(笑)。

Episode 2 へつづく